2013.10.24

角田市郷土資料館訪問記part2~幕末の角田へタイムスリップ!~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]

今日は前回に引き続き、角田市郷土資料館のお話を[ぴかぴか(新しい)]

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こちらが角田市郷土資料館館長の新庄屋元晴さん。現在は角田市郷土資料館で企画展、和田家資料~内留に見る角田石川家の奥向き~が行われています(9/18~11/2まで)。分かりやすく丁寧な語り口で、今回の企画展の解説をして下さいました。

さて、みなさん、ここから今日の本題です。

今から江戸時代後期、幕末の時代の角田へと一緒にとタイムスリップしてみましょう[るんるん]

 

それっ[exclamation×2]

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こちらは前回もお話させて頂いた、郷土資料館にある元角田城門です。
イメージだけでも江戸時代の雰囲気を感じて頂ければ幸いです。
さて、時は嘉永元年(1848年)、角田は第13代石川義光公(35歳)の時代です。
 
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こちらのパネルは、館長の新庄屋さんが和田縫殿右衛門の古文書「内留」の内容を読解をされて、1848年当時の石川家の一部の登場人物を紹介したものです。 
黄色に塗られている方は、その時点で存命の方で、白く塗られてる方は亡くなられた方。
こうやってみていくと、13代義光公は正室との間に8人のお子様を授かったのですが、そのうち生き延びたのは次代邦光公を含め3名。残りの方はほとんど2~3歳までで亡くなっています。また、この時点では義光公の正室、瑶台院様も亡くなっています。側室のお貞殿が生きていらっしゃいますが、お子様の党明院様も1歳で亡くなられています。
新庄屋さん曰く、当時医学が進んでいないということもありますが、流行り病の天然痘が流行りだすと、手の打ちようがなくバタバタと亡くなってしまうとのことでした。このパネルだけで、この時代に生き延びることがどれだけ大変か伝わってきますね。
こういう事情もあり、縫殿右衛門の内留には葬式など様々な私生活における行事が克明に記載されいるとのこと。そして角田石川家が行っていた奥向き年中行事をまとめたのがこちら。
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表にしてみると、1年間通して様々な行事が行われているのが分かります。殿様の家系って結構忙しいみたいですね。特にお正月は忙しいようで、年が明けてからは毎日の様に行事が入っています。
5月には端午の御祝儀が行われたり、9月にはお月見が行われています。
これらの行事は平成の時代へも引き継がれていますね。
また、7月7日は角田城内で七夕の御祝儀が行われています。こうやって文字だけ見て行っても楽しいけど、なかなかイメージが湧かないという事で、この七夕の御祝儀については、どのように行われていたのか、私たち一般人が見ても分かるようにモデルを使った展示がなされていました。こちらのモデルは館長さんの手作りです。
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角田のお城の中の、広いお座敷の暖簾先に三段の段を作って、様々なものを乗せて七夕のお祭りをしたという記述が残っており、その史実に基づいて館長さんがモデルを完成させました。なんと、1つ1つの絵は館長さん自ら描いたそうです!!館長さん、上手すぎます!!この様なモデルを作るのは、史実に基づいて作らなければならないので、その点が難しかったとのことでした。
そして肝心のお供え物ですが、まず1番上の段には、香炉と水鉢を置いて、
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そして2段目には、素麺(そうめん)、御神酒、御洗米、枝豆・桃、が並びます。
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3段目には、ささげ、からどり、越瓜・熟瓜・茄子。
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1番下には、太鼓、三味線、琴、横笛などの楽器が並んでいました。
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館長さん曰く、七夕は1年に1度織姫と牽牛(彦星)が会えるおめでたい日で、それを祝うためにお供えをして、更にそれだけではなくて、その周りには「楽器が上手になりますように」との願いを込めて楽器を並べたということでした。なんだかひなまつりの時の雛飾りみたいですね。
そして縁側から南側の庭には笹竹を4本立てます。これはあまり大きいものではなかったそうですが、そこに五色の紙を切って短冊にして、お姫様などが願い事を書いて吊るしたそうです。
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また、当時2人のお姫様(おゆき様、おもと様)がいて、その2人のお姫様の着物と帯を衣桁(いこう)に掲げ、若殿様などの男性の着物は広蓋(ひろぶた)と呼ばれるお箱の中にたたんで入れて並べたそうです。江戸時代後期、角田での七夕のお飾りはこの様だったそうです。この様にしっかりとモデルが作れるくらい、縫殿右衛門の内留には事細かにきっちりと書かれていたんですね。
そして、館長さんが書かれたモデルの絵は細かいところまで描かれていて、本当に素晴らしいものだと思いました[ぴかぴか(新しい)]館長さんが描いてくださったマンガを、じっくりとご覧下さいませ。
<角田市郷土資料館訪問記part3へつづく>

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