妙安寺の井戸
石川家3代、宗敬(むねたか)公の奥方、牟宇姫様の実母、於山方(おやまのかた)の御堂跡
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牟宇姫さまは、伊達正宗公と側室於山方(柴田但馬息女)の娘。父亡き後、牟宇姫は龍性院(1655年妙安寺と改名)を建て、母を呼び寄せました。親孝行な娘です。於山の方は、82歳で没し、法名を尾山天渓院泰窓妙安大姉とされました。天渓院の木像はここに安置されていましたが、明治維新の際に廃寺となり、いまの長泉寺に移されたそうです。長泉寺に行くと、見せて頂けます。(たぶん)また、水神宮の(小詞あるのみ)社は、八幡神社に合祀され、残っているのはこの井戸のみ。
ところで、現存している石川家ゆかりの木像は、牟宇姫の母である於山方と、夫、三代宗敬公、初代石川昭光公と7人の殉死者のみ。昭光公と7人の尊像は、八幡神社の北にあった安養寺に安置されていましたが、当時の住職が斗蔵山の白山神社神主となったため自然廃寺となり、尊像は長泉寺に移動されたそうです。また、よく、「牟宇姫の木像」もどこかにあるはず、と聞きますが・・。(^^)
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その昔、長泉寺の南に「重華堂」という霊廟があり、「そこには、初代の奥方、二代義宗、三代奥方、並びに実母妙案霊碑、または尊像を安置していましたが、明治初年12月9日の長泉寺失火の際に焼け、霊碑額面のみがのこった」と、『伊具郡史』に書かれています。つまり!その時、尊像はすべて焼失してしまった!と読めます。。残念ですけど・・。いろんな資料を読むと、失火?不審火?と疑うほど、「明治維新」時の壮絶さを感じます。いま、平成維新とか言われますが、比べられない・・。明治維新、戦後、そして大震災、時代の変化に人々は翻弄されながらも、強く生きてきたのですね!(^^;
角田は水が悪く、不足していた為、この井戸の水を町民は買って使っていたと伝えられています。この井戸は、伊達政宗ファンには要チェックの場所かと思います。しかし、住宅街にあり入り口がいまいち、わかりづらいのが難点です。以前居た文京区では、樋口一葉が使った井戸や、通った質屋跡など、歴史的価値がないと思われる所が人気スポットになっています。わからないものですね~。
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