2013.10.25

角田市郷土資料館訪問記part3~奥女中さんの暮らし~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]
前回は角田城内で行われていた七夕のお祭りお話でした。 
さて、今日も江戸時代後期の角田へとタイムスリップしてみましょう[るんるん]
それっ[exclamation×2]
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1800年代の角田、写真からイメージして頂けると幸いです。
お城の中で興味深い部分と言えば、様々ありますが、「大奥」はその1つではないでしょうか。
少し前まではテレビドラマや、 映画でかなり話題になっていましたよね。
角田市郷土資料館の館長、新庄屋さんはお城の中の奥女中さん達の生活についてお話してくれました。実は今まで角田の奥女中さん達が何をしてたのか、収入はいくらだったのか、そういった資料はあまりないそうです。そこで、今回の和田家資料には奥女中の生活の記述もあり、この和田家資料が角田とその周りの都市の奥女中の生活を解明していく手がかりになっていくのではないかと思います。
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1846年当時、角田のお城には26~27人の奥女中が角田のお城の中で働いていたそうです。
 奥女中の中にも格付けがあり、一番最上位が「側室」、その下に「中老・老女」がおり、またその下に一番人数の多い「中位女中」、またその下に・・・といった感じで、様々な身分の奥女中がお城で働いていました。
角田の奥女中さんの収入についてですが、一番の大きな収入は年2回、お盆(夏)と暮(冬)に支払われる四季施(しきせ)と呼ばれるものだったそうです。これは現在でいうボーナスに当たるもの。1回にもらえる金額は玄米2俵分に相当し、年に玄米4俵分のお金をボーナスで頂くということでした。そのほかにも、お小遣いを貰う機会もあり、年間通した固定収入は金2両と銭770文と言われています。
現在米1俵が約16000円位ですから、現在の貨幣価値で考えると奥女中さんの給料は決して高いとは言えないと、館長さん。それと自分が着る着物やかんざし等はそのお小遣いの中から自分で買わなきゃいけなかったそうです。ただ食事はお城が用意してくれるので心配はないですし、風邪などにかかったら医者にも診てもらえるという境遇だったそうです。
そして見て頂きたいのがこちら。
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これは角田のお城で働いていた奥女中さんが実際に使ったかんざしや櫛なんです。
角田に住んでる方で、先祖が奥女中さんをやっていた方がいて、その方が譲って下さったそうです。これから、角田の奥女中さんがどんな髪飾りをしていたのか、櫛で髪を梳かしていたのか、イメージできますね。とても貴重な資料だと思いました。櫛なんかは現在でもそのまま使えそうなくらい、状態が良いんですね。
和田家資料の研究が進んでいくと、もっと角田の奥女中さんの暮らしが見えてくるかもしれないですね。今後の資料の研究に期待です[ぴかぴか(新しい)] 
場所:角田市郷土資料館
期間:平成25年9月18日~11月2日 
<角田市郷土資料館訪問記part4~角田版大名行列?~へつづく>

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2013.10.24

角田市郷土資料館訪問記part2~幕末の角田へタイムスリップ!~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]

今日は前回に引き続き、角田市郷土資料館のお話を[ぴかぴか(新しい)]

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こちらが角田市郷土資料館館長の新庄屋元晴さん。現在は角田市郷土資料館で企画展、和田家資料~内留に見る角田石川家の奥向き~が行われています(9/18~11/2まで)。分かりやすく丁寧な語り口で、今回の企画展の解説をして下さいました。

さて、みなさん、ここから今日の本題です。

今から江戸時代後期、幕末の時代の角田へと一緒にとタイムスリップしてみましょう[るんるん]

 

それっ[exclamation×2]

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こちらは前回もお話させて頂いた、郷土資料館にある元角田城門です。
イメージだけでも江戸時代の雰囲気を感じて頂ければ幸いです。
さて、時は嘉永元年(1848年)、角田は第13代石川義光公(35歳)の時代です。
 
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こちらのパネルは、館長の新庄屋さんが和田縫殿右衛門の古文書「内留」の内容を読解をされて、1848年当時の石川家の一部の登場人物を紹介したものです。 
黄色に塗られている方は、その時点で存命の方で、白く塗られてる方は亡くなられた方。
こうやってみていくと、13代義光公は正室との間に8人のお子様を授かったのですが、そのうち生き延びたのは次代邦光公を含め3名。残りの方はほとんど2~3歳までで亡くなっています。また、この時点では義光公の正室、瑶台院様も亡くなっています。側室のお貞殿が生きていらっしゃいますが、お子様の党明院様も1歳で亡くなられています。
新庄屋さん曰く、当時医学が進んでいないということもありますが、流行り病の天然痘が流行りだすと、手の打ちようがなくバタバタと亡くなってしまうとのことでした。このパネルだけで、この時代に生き延びることがどれだけ大変か伝わってきますね。
こういう事情もあり、縫殿右衛門の内留には葬式など様々な私生活における行事が克明に記載されいるとのこと。そして角田石川家が行っていた奥向き年中行事をまとめたのがこちら。
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表にしてみると、1年間通して様々な行事が行われているのが分かります。殿様の家系って結構忙しいみたいですね。特にお正月は忙しいようで、年が明けてからは毎日の様に行事が入っています。
5月には端午の御祝儀が行われたり、9月にはお月見が行われています。
これらの行事は平成の時代へも引き継がれていますね。
また、7月7日は角田城内で七夕の御祝儀が行われています。こうやって文字だけ見て行っても楽しいけど、なかなかイメージが湧かないという事で、この七夕の御祝儀については、どのように行われていたのか、私たち一般人が見ても分かるようにモデルを使った展示がなされていました。こちらのモデルは館長さんの手作りです。
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角田のお城の中の、広いお座敷の暖簾先に三段の段を作って、様々なものを乗せて七夕のお祭りをしたという記述が残っており、その史実に基づいて館長さんがモデルを完成させました。なんと、1つ1つの絵は館長さん自ら描いたそうです!!館長さん、上手すぎます!!この様なモデルを作るのは、史実に基づいて作らなければならないので、その点が難しかったとのことでした。
そして肝心のお供え物ですが、まず1番上の段には、香炉と水鉢を置いて、
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そして2段目には、素麺(そうめん)、御神酒、御洗米、枝豆・桃、が並びます。
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3段目には、ささげ、からどり、越瓜・熟瓜・茄子。
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1番下には、太鼓、三味線、琴、横笛などの楽器が並んでいました。
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館長さん曰く、七夕は1年に1度織姫と牽牛(彦星)が会えるおめでたい日で、それを祝うためにお供えをして、更にそれだけではなくて、その周りには「楽器が上手になりますように」との願いを込めて楽器を並べたということでした。なんだかひなまつりの時の雛飾りみたいですね。
そして縁側から南側の庭には笹竹を4本立てます。これはあまり大きいものではなかったそうですが、そこに五色の紙を切って短冊にして、お姫様などが願い事を書いて吊るしたそうです。
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また、当時2人のお姫様(おゆき様、おもと様)がいて、その2人のお姫様の着物と帯を衣桁(いこう)に掲げ、若殿様などの男性の着物は広蓋(ひろぶた)と呼ばれるお箱の中にたたんで入れて並べたそうです。江戸時代後期、角田での七夕のお飾りはこの様だったそうです。この様にしっかりとモデルが作れるくらい、縫殿右衛門の内留には事細かにきっちりと書かれていたんですね。
そして、館長さんが書かれたモデルの絵は細かいところまで描かれていて、本当に素晴らしいものだと思いました[ぴかぴか(新しい)]館長さんが描いてくださったマンガを、じっくりとご覧下さいませ。
<角田市郷土資料館訪問記part3へつづく>

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2013.10.23

角田市郷土資料館訪問記part1~和田家資料「内留」に見る角田石川家の奥向き~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]

先日、私は角田市郷土資料館に初めて足を運びました。

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角田の町の中心部に、長い歴史を感じさせる建物があります。このお屋敷は、かつての大地主の初代と、2代目の氏家丈吉氏が明治から大正にかけて建てたもので、昭和60年に角田市が所有者から譲り受けて今日、角田市郷土資料館として開放されています。

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現在、角田市郷土資料館では東日本大震災の影響で休止していた企画展、和田家資料~「内留」に見る角田石川家の奥向き~が3年振りに一般公開(9/18~11/2迄)されています。

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こちらの企画展について、今回特別に館長の新庄屋元晴さんから2時間たっぷりとお話を聞かせて頂きました。

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とても分かりやすく、丁寧な語り口で、新庄屋さんのお話に引き込まれてしまいました。今回このような貴重な機会を頂き、しかも企画展については贅沢にも新庄屋さんの解説付きということもありまして、私は今回の郷土資料館で見て聞いたお話を訪問記として、GO!角田ブログに数部に分けて連載という形でアップしてしていこうと考えています。今日はその第1弾として、長年石川家にお仕えした和田家の歴史にスポットを当てていきたいと思います。

さて、その前に。

今回の企画展が行われているのは受付のあるお屋敷ではなく、別館という事で外に移動すると、別館の反対側に古くて大きな門が見えました。

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新庄屋さんのお話によると、こちらの門は実際の角田城門で、昔角田城から払い下げられたもので、県内でもサイズはかなり大きいものなのだそうです。そのため、写真の右側には、白い壁がありません。これは、もともとあったお屋敷にお城から払い下げられた大きな門を当てはめたからなんです。資料館の入り口である門にもちゃんとした歴史があるんですね。その後、和田家資料が展示されている建物の前へ向かいました。

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建物と言っても、こちらは蔵。しかも3棟繋がるように並んでいます。ちょっと珍しい気もしますね。角田では段々と蔵自体が減っているので、郷土資料館のこの蔵だけは後世に残していかないと、と新庄屋さんはお話してくれました。奥に見える2棟が米蔵で、手前が前蔵と呼ばれるもの。昔、田畑を氏家家から田畑を借りていた小作人がこの蔵に米を運んだのでは、と言われています。和田家資料は真ん中の米蔵の中に展示されています。

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さて、やっと和田家資料が展示されている場所に来ました。この蔵の中が展示室になっています。

ところで、和田家って一体どんなお家柄なのでしょうか?ここからは、和田家の歴史について、新庄屋さんが語って下さったお話をまとめてみます。

和田家とは?

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<尾山の方とともに伊達政宗の家臣へ>

伊達政宗公が活躍していた時代、隣の柴田町では柴田様というお殿様が柴田一帯を治めていました。お殿様のご息女に「尾山の方(おやまのかた)」と呼ばれる方がおりました。尾山の方は政宗公の側室として伊達家に迎え入れられることになりました。その際、尾山様のご希望でお附きの侍と一緒に柴田から青葉城へと上ります。そのお附きの侍が、和田家の前身である大和田家でした。政宗公の側室となった尾山様は政宗公との間にご息女、牟宇姫(むうひめ)を授かります。牟宇姫が成長すると、元和5年(1619年)に牟宇姫は仙台伊達家より、当時角田を治めていた伊達家の一門筆頭の家臣である石川家、3代宗敬公のもとへ正室として迎え入れられます。石川家は、伊達藩内では伊達家に次ぎ、ザ・セカンドのとても格式高いお家柄でした。

<角田石川家、牟宇姫のもとへ> 

政宗公没(1636年)後、牟宇姫のお母様である尾山の方は、せめて晩年は実の娘と一緒に暮らしたいとの思いから、政宗公と過ごした青葉城を後にして、牟宇姫の嫁ぎ先である角田へと下ります。この時も、お附きの侍である大和田家も尾山様と一緒に角田へと下り、石川家の臣となります。大和田家はこうして角田石川家に仕えることになりました。その後、姓の頭文字の「大」を取って「和田」へと改名しました。そして、和田家は200年以上続く角田石川家の奥向き(私生活)の面倒を見るお役職(御家老・奥年寄・奥御用人など)について、重臣として石川家を支え続けました。

それから約200年後、江戸時代後期。

<和田縫殿右衛門(わだぬいうえもん)の日記> 

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和田家の子孫で和田縫殿右衛門(ぬいうえもん)という者がおりました。縫殿右衛門(ぬいうえもん)はお殿様の奥(私生活)をお世話する役職、奥年寄(おくとしより)という役職についており、彼はとても几帳面で実直な性格で、日々の出来事を事細かに日記に綴っておりました。お城では、お殿様が政務を司る場所、今の時代でいう役所がある場所を「表」といい、お殿様が普段の生活を行う場所を「奥」と呼んでおりました。縫殿右衛門はこの「奥」の出来事について細かく日記を書いていたのです。また、内輪の内容・お話を記した、留めたものであるので、これを「内留(うちどめ)」と言います。その縫殿右衛門が書いた内留が約10年分程発見されたのです。

現在角田市郷土資料館ではこの「内留」の読解を4年前から進めており、現在は約3年分の読解が終わって3冊の解説本が出来たそうです。残りの分はこれから読解を進めていく予定だそうで、これらが角田石川家の歴史と奥向き(私生活)を紐解く貴重な資料として、角田の歴史研究に役立っていくのではないかと思います。これらの貴重な資料が今回の企画展に展示されています。

和田家は柴田から仙台へと移り、それから角田へとやって来ました。それが400年程前のお話。そこから和田家は200年以上も侍として角田石川家の家臣として石川家の家系をお守りしていく歴史を歩むんですね。とても興味深いお話で、館長さんの声にしばらく耳を傾けながら、昔の人(特に侍)の忠誠心はやっぱりすごかったんだなぁと感じました。

<角田市郷土史料館訪問記part2へつづく>


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