2014.02.20

牟宇姫の命日でお墓参り&政宗公の手紙の勉強会

こんにちわ。宙(そら)です。

先日、角田駅イベントホールにて伊達政宗公が娘の牟宇姫に宛てた手紙の勉強会が開催され、私そらも参加させて頂きました。

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講師は元仙台市博物館館長の佐藤憲一先生。

今回は角田市郷土資料館に展示してある政宗公の手紙3通の解説をして頂きました。

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参加されてる市民の方も真剣な表情で佐藤先生のお話を聞いていました。

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今回の解説で面白かった点は、大河ドラマ『軍師官兵衛』の主役、黒田官兵衛の子孫が政宗公の手紙に登場してたこと。

手紙の中で「黒田右衛門」が裁判沙汰になっていると政宗公は書いています。

この人は黒田官兵衛の子孫あたる人なんだそうです。

黒田氏は福岡の大名で、当時江戸でお家騒動になっていました。

その時、政宗公も江戸にいて、11月頃に帰る予定だったのが、そのお家騒動の為に上様(将軍様)から仙台へ帰国の許可が下りないということでした

寛永10年3月15日にその旨の内容の手紙を牟宇姫に出しています。

佐藤先生の解説でさらに興味深かったのは、この日、牟宇姫に手紙を出した後に、幕府の方から帰国の許可が下りたという事。

この手紙を書くタイミングが次の日とかだったら、全く違う内容になっていたかもしれませんね。

 

さて。

 

この勉強会が行われたのは2月19日。

2月19日、実は牟宇姫の命日(旧暦)だったって、知ってました?

私は勉強会で知りました(^^;

そんなわけで、私は牟宇姫のお墓参りにいくことにしました!

台山公園の駐車場に車を止め、牟宇姫のお墓の方へ向かうと、角田市商工観光課の方々が牟宇姫のお墓参りに来られてました。

雪の残る参道を歩いて、牟宇姫のお墓へ。

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牟宇姫のお墓にお線香とお花を添えて

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来月行われる、牟宇姫ひなまつりが無事に開催されますように。

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来月行われる牟宇姫ひなまつりの詳細はこちら↓↓

 


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2014.01.07

昔、角田は海だった?~角田の貝塚巡り~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]

突然ですが・・・ 

みなさん、5000~6000年程前、温暖化が進んで海水面が今よりも5~6m位高い時代があったって、知ってました?

その時代、角田を流れる阿武隈川は今よりも水位が高く、角田市まで海水が流れ込んできていたそうです。

それを証明するものとして、角田市内に点在している「貝塚」があります。

東根地区の西小坂(阿武隈川西側)には角田市の指定文化財になっている「土浮貝塚」があるということで、行ってみることにしました!Let's go!

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これは「土浮貝塚」前の土手から見た、阿武隈川の眺め。といっても、土手からは川肌はほとんど見えませんでした。林になっている向こう側に阿武隈川が流れています。そしてメインの「土浮貝塚」は私の立っている反対側。

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行ってみると、西小坂地区の公民館が建っていて、その横に土浮貝塚の案内看板を発見! 

案内看板によると、この辺り一体が縄文時代前期の貝塚で、以前に「土浮貝塚」の調査と発掘が行われ、釣針や縄文土器、その他にもアサリやシジミなどの貝類、そしてクロダイ・スズキ・ニゴイ・ウナギなどの魚骨、またイノシシ・シカ・タヌキなどの獣骨類がこの貝塚から出土したそうです。

きっと土浮貝塚付近まで川が広がっていて、この辺一帯が河口になって、先住民はこの辺で狩猟をしたりして定住していたんですね。

土浮貝塚の裏側に回る道があったので、裏側から写真を撮ってみました。

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畑の向こう側のちょっと盛り上がったあたりが貝塚だと地元の方が教えて下さいました。

さて、今度は阿武隈川を挟んで東側、東根橋を渡って、土浮貝塚の反対側の方へ来てみました!

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正面の小さく見える民家付近が「土浮貝塚」です。

こちらの東側の地区にもいくつかの貝塚がありました。

まずはこちら。

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こちらは「腰休(こしやすみ)貝塚」。坂津田地区にありました。

案内看板によると、この貝塚は縄文時代晩期のもので、出土するものから約2500年程前の縄文時代前期の貝塚ということみたいです。

腰休貝塚 から県道を1km程北上したところに、もう一つ貝塚があるという事を地元の方から聞いたので、今度はそちらへ移動。

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こちらの林になっているところは「筒目木(どうめき)貝塚」と呼ばれる貝塚だそうです。

こちらも坂津田地区にありました。

昔はこの近所の方々の遊び場になっており、貝殻などを拾って遊んでいたそうです。

山のようになっている所から貝殻が出てくるって、なんだか不思議な感じがしますよね。

また、ちょっと移動して。

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こちらは平貫地区の「館(たて)貝塚」

この館貝塚を背にして、阿武隈川の方角を見てみます。

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阿武隈川の川肌から400~500m位離れているでしょうか。

この日はあまり天気は良くなかったので、どんよりとした写真になってしまいました(^^;)

5000~6000年前までは、きっとこのあたりまで川幅があって、海水が流れ込んでいたんでしょうね。 そして、この辺りに住んでいた先住民は貝や魚を獲って食べていたんですね。

歴史を感じますね~。

他にも回りたい貝塚もあったのですが、今回は雨天ということもありここでストップ。

今度は晴れた日にもう一度回ってみたいと思います[晴れ]

また、角田市指定文化財になっている土浮貝塚はこちらです↓↓
大きな地図で見る

 


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2014.01.06

隠れキリシタンの史跡?~角田市東根の子安観音堂~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]

最近では寒い日が続いていますが、年も明けたばかりなので、寒さに負けず元気に、新年の良いスタートダッシュを決めたいですね[ぴかぴか(新しい)][ひらめき][ぴかぴか(新しい)]

さて。

最近、興味があって角田市の歴史について色々と調べたりしているのですが、『伊具盆地の仏たちは』(著:渡部三男)という本の中に、東根地区にある子安観音堂が昔のキリシタンの史跡ではなかろうか、という趣旨の記述があり、そこに興味を持った私は先月、それを確かめる為に東根へ行ってきました。

ただ、東根地区のどこに観音堂があるのか分からなかったので、色んな人にその存在をうかがってみました。 

色んな人の話を聞いていくうちに、平貫地区のあるお宅の裏山に、どうやらその観音堂があるらしいという事が分かったので、そのお宅を訪問して、許可を頂いて裏山に上らせて頂きました。

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参道はなく、険しい竹林の中を這いつくばるようにして登っていきました。

昔は駒形神社という名前で信仰を集めていて、ちゃんとした参道があったそうですが、現在はその参道を無くしてしまったために、竹藪の急斜面を上らないとそこには辿りつけないということでした。

竹藪の急斜面を上りきると、頂上は少し平たくなっていました。そして、ついに竹林の中で異彩を放つお堂を発見!

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コンクリート作りで、土台は六角形の形をしていて、建物のてっぺんには丸い玉のような物が乗っかっています。しかも土台部分は2段になっています。なんだか凄いデザインですね。そして、かなり立派に出来ています。屋根の部分も特徴的です。

もっと小さいお堂だと思っていたので、見つけた瞬間は、立派すぎて正直ビックリ!

このお堂は本の記述によると、昔は「御聖殿」(御聖堂)、または「六角堂」等と呼ばれていたそうです。そして、御神体である子安観音像は平貫地区の諏訪神社の境内の中腹に祀られているとのこと。今度諏訪神社に行ってみようと思います!

そして、その御聖殿と呼ばれるお社から南に約10数メートル行くと、今度はこの様なお像を見つけました!

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おそらく左側の像が青面金剛像で、右側には石碑が建っています。

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それにしても、この様な雑木林の中でも綺麗な状態で残っているんですね。なんだか、世紀の大発見をした様な気分でした。

本の話によると、江戸時代初めに、伊達氏家臣の遠山帯刀(とおやまおびつぐ)という人が平貫地区を治めていたそうです。その遠山氏は熱心なキリスト教信者だったそうですが、三代将軍家光の時の厳しいキリシタン迫害に屈することなく、城主の地位を捨てて、信仰を守る為に姿をくらましたそうです。

子どもを抱いている子安観音像は一般的には安産祈願などの観音様ですが、もう一つの意味として、隠れキリシタンが礼拝したマリア像という意味合いもあるそうです。

そして、角田市にある子安観音像のほとんどは阿武隈川を挟んで東側の隈東地区(東根・藤尾・枝野)にあり、先ほどの著者の渡部さんは著書の中で、その遠山氏の信仰が地下にもぐって、角田・丸森に隠れキリシタンの里を作り、観音像に子供を抱かせ、それをイエスの母マリアとして礼拝した時代があったのではなかろうか、と述べています。

なんだかミステリアスなお話ですね。

でも、丸森町の筆甫地区には隠れキリシタンの史跡でもある「マリア観音堂」(丸森町指定文化財)があると聞きますし、調べていったら、もしかしたら角田にもそういった史跡があるのかもしれませんね。

今回、色んな方にお話しを聞いたのですが、知らない方も多く、今や「忘らるる歴史」になりつつあるのを感じました。

最後になりますが、今回は許可を頂いて私有地内を経由してこちらのお堂に向かいました。また、急斜面(ほぼ垂直!)を登るため大変危険ですので、こちらに無断で立ち入ることはご遠慮下さいますようお願い致します。

宙(そら)


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2013.10.29

角田市郷土資料館訪問記part5~伊達政宗から牟宇姫への手紙&旧氏丈邸~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]

先日、角田市郷土資料館館長の新庄屋元晴さんから、企画展「和田家資料~内留に見る角田石川家の奥向き~」について貴重な解説を頂きました。

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今日は伊達政宗公のもとから角田石川家、第3代宗敬公へと嫁いだ政宗公のご息女、牟宇姫へ宛てた政宗公の手紙を紹介させて頂きます。

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こちらが実際に寛永8(1631)年伊達政宗公(御年65歳)が、角田へ嫁いだご息女の牟宇姫(御年24歳)に送った手紙です。

政宗公の字が達筆すぎて、私には全く読めません(^^;)

郷土資料館館長さんの話ですと、これは女文字で書かれたものだそうです。昔は男文字と女文字の2つがあって、政宗公は娘(牟宇姫)に手紙を出す際は女文字を使って書いたそうです。政宗公の博識さと娘への愛情が伝わってくるエピソードですね。

さて、この手紙の内容ですが、この政宗公の手紙の下に読み下し文が書いてありました。

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文章の真ん中程から読んでいくと、「あゆのすもし一おけ三十入、つかハし申候、らい月一日比、よく候へく候、それすき候ハゝ、あちハひわるくなり申へく候間、その比忘れ候ハて、しやうくハんあるへく候、」

「1桶にあゆ鮨を30個入れて送った。来月1日頃になったら食べ頃になるよ。それを過ぎると味が悪くなるから、その頃合いを忘れないで味わって食べなさい。」

お父様の娘に対する優しさがこの文章から伝わってきますね。牟宇姫は政宗公にずいぶんと可愛がられた様で、手紙のやり取りも多かったと聞きます。

政宗公にとっては五郎八(いろは)姫以来のご息女ということもあって、目に入れても痛くない存在だったんでしょうね。牟宇姫への愛情の深さが伺えます。

牟宇姫は晩年、父政宗公の深恩に酬いるため、松島の瑞巌寺に自筆の法華経8巻を納めています。このことからも、牟宇姫と政宗公の「絆」は深かったのではないかと推測できます。

そしてこちらの写真が牟宇姫が角田石川家への輿入れの際に持って来たと言われる、雛人形2体。

男雛

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女雛

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こちらの人形は個人で所有されているものだそうで、資料館にはパネルで展示してありました。実際の人形は毎年2~3月に公開されるそうです。

こうやってみてみると、沢山の金が使われています。配色も金、黒、赤を使っており、これは伊達家の強さ、資金力のあるところを表した配色といわれています。見ただけでも、その豪華さが伝わってきます。この人形は普通の雛人形よりも大きく、高さ45㎝、幅60㎝もあるとのこと。そして、江戸時代の「男は度胸、女は愛嬌」を表したような凛々しい表情(男雛)と柔らかい表情(女雛)。この雛人形を作る時というのは、普通の人形を作るのとは訳が違うそうで、人形師が魂を入れて、人形を魂のある一人の人間の様にして作っていく為、本当に人間らしいお顔になるんだそうです。来年の牟宇姫ひな祭りが楽しみです!

話は変わりまして。

これまでは角田市郷土資料館の企画展をメインにお話してきましたが、ここからは角田市郷土資料館の建物「旧氏丈邸」を見て行こうと思います。こちらの、旧氏丈邸、本当に凄いお屋敷なんです。あちこちに色んなカラクリがあって、まるで忍者屋敷のようでした。

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こちらの旧氏丈邸は、2年前の震災の際に大きな被害を受けました。昨年1年修復されて、一般公開できるまでになりました。

特に敷地の中にある蔵は土壁なので、かなりの被害を受けたとのことでした。現在は綺麗に直されています。

こちらのお屋敷に使われている柱の一つ一つが立派なものであり、震災当時働いていた職員の方はその柱につかまって助かったと聞きました。

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こちらの写真のお部屋は新座敷と呼ばれるお部屋で、写真の様に扉には金箔が使われています。凄いですよね。そして私が一番感動したのが、こちらの障子です。

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真ん中が開閉式のガラス障子になっており、お庭の風景を眺めたい時にサッとそこだけ開けられる仕組みになっています。本当に素敵でオシャレなつくりですよね。うらやましいです。この障子は今時代にあるようで、あまりないですよね。

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そしてこちらの小さめの障子も、とても細かく、繊細に作られているんです。見てるだけで面白いですよね。
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廊下を歩いていくと、お風呂にたどりつきました。

こちらのお風呂、本当に凄いんです!!

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まずは2畳ほどの洗面所があり、その隣に行くと

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また3畳ほどの畳の部屋の脱衣所がありました。脱衣所でこの広さは贅沢ですよね。

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そして大理石の五右衛門風呂&備え付けシャワー!この時代にシャワーがあるっていうのは凄いですよね。そして極めつけはやっぱりこちら。

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お風呂に青い鳥が描かれているステンドグラスの窓。そして高い天井。こんなリッチなお風呂に一度入浴してみたいものです。

お風呂場以外にも、お屋敷の奥の方に夏座敷というお部屋がありました。

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こちらのお部屋は沢山窓がついているので、夏は本当に涼しいそうです。この部屋でエアコンなしで快適に過ごせそうですね。
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2階からお庭を眺めてみました。2階と言っても一般のお宅よりも高くて、3階くらいにいるような、空中を歩いているような感じでした。旧氏丈邸は風情があって深い味のある高級旅館の様な雰囲気を持ったお宅でした。 また機会があれば、もう一度旧氏丈邸に足を運んで当時のこの高級感を楽しんでみたいなぁと思います!
今回、企画展で分かりやすく解説をして下さいました、角田市郷土資料館館長、新庄屋元晴さん、また対応して下さった職員のみなさま、本当にありがとうございました!そして、今後ともよろしくお願い致します[晴れ]
<完>

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2013.10.28

角田市郷土資料館訪問記part4~角田版大名行列?~

こんにちわ。宙(そら)です[晴れ]

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現在、角田市郷土資料館では企画展「和田家資料~内留に見る角田石川家の奥向き~」が行われています。今日もそのお話の続きをさせて頂きますね!

角田版大名行列?

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さて、こちらの写真は石川家のお姫様、お源様(おもとさま)がお城から天神町の天神宮に参拝へ向かう際の行列をモデルで表したもの(1851年当時)。当時お源様は15歳で、今でいうと中学生くらいだそうです。お城~天神宮まで往復2kmの距離をこの大行列で移動するんですね。人数は40人弱程。ちょっと写真が小さくて、お姫様がどこにいらっしゃるか全く分かりませんね。

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お源様はこちらの御乗物(のりもの)と呼ばれるものに乗っております(写真中央)。御乗物は駕籠(かご)よりもひと回り大きく、大人1人と子供2人位乗れるスペースを持っているそうです。御乗物の周りを見てみると、お侍さんが合計8人で囲んでいます。警備も手厚いことがこのことからも分かりますね。

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そしてこちらが御乗物より一回り小さい駕籠(かご)。こちらにはお源様の御供をする、12代宗光公側室恵鏡殿、13代義光公側室お貞殿が乗られています。御乗物と比べて見ると、御乗物は4人で担いでいるのに、駕籠では2人となっています。また、周りに配置されるお侍さんも2人となっています。こうやって違いを見ていくのも、面白いですよね。ちなみに、モデルの絵を描かれたのは館長の新庄屋さん。とても細かいところまで描かれています。

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さて、こちらは「七人猩猩図(しちにんしょうじょうず)」と呼ばれる大きな絵馬。これは、館長さんが和田家資料を解読していくうちに、この絵馬が横倉愛宕神社に奉納されたという事実が分かり、実際に神社へ行ってみたら本当に残っていたということでした。こちらも現在角田市郷土資料館に展示されています。猩猩(しょうじょう)とは、中国の伝説(架空)の生き物で、オランウータンか猿がモデルになったのでは?と言われています。猩猩はお酒好きで赤い髪の毛、そして親孝行のお話によく出てくるというのが特徴。この絵自体は、石川家お抱えの絵師が描いたのではと言われていますが、名前が書いていないので実際は誰が描いたか分からないということでした。そして、この絵馬は石川家の子供たちが愛宕神社へと奉納しています。この絵馬に「私も大人になったら、親孝行の人間にないたいです」という願いをこめて、奉納されたそうです。石川家の教育の一環ということなのでしょうね。

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こちらの写真は、第13代角田領主石川義光公が10日間かけて小銃を千発撃った的を奉納したもの。的に向かって千発撃って、そのうちの700番台と900番台の成績が良く、700番台は100発中96発命中、900番台は100発中97発命中したとのこと。この際に使われた銃は「ゲベル銃」と呼ばれるもので、約30メートルの距離から的を狙ったとされています。1850年当時、13代義光公は率先して鉄砲等の軍事訓練を行っていたことがこのことから分かります。戊辰戦争が始まる18年前のことです。ただ、戊辰戦争の際は、薩長の持っている鉄砲は100メートル先からガンガンと打って来たのに対し、この銃だと50メートル離れると命中率が下がるという弱点もあり、不利な戦いを強いられたとのことでした。しかし、この的を見る限り、角田のお殿様石川公は、普段から戦闘の準備を周到にされていたことが伝わってきます。その様な殿様がいらっしゃった江戸時代の角田で暮らした人々は、幸せな生活を送っていたのではないかなぁと思います。18年後には戊辰戦争が始まりますが、始まる前のちょうどこの時代の角田にタイムスリップしてみてみたいものですね。
<角田市郷土資料館訪問記part5~伊達政宗から牟宇姫への手紙&氏丈邸~へつづく>

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